目次から、お好きなところをクリックしてご覧いただけます。
目次
夫の亡父はシベリア抑留者、私の亡父は海軍少年航空兵
私ども夫婦の親は
4人ともあの世に旅立っています。
「親が戦争に行った」最後の世代、
その私たちがシニアとなっています。
筆者の夫の亡父は、シベリア抑留者だったんだ。戻ってきてから結婚したんだよ。
筆者の亡父は少年航空兵でした。 飛び立つ前に終戦したから、筆者が生まれたってことですね。
命をかけて国をまもった
日本人が沢山いたことを
忘れるわけにいかないのです。
空襲にあったふるさと
私どものふるさとは、
大空襲にもあいました。
私は、祖父母や父母から
当時の被害の様子などを
直接聞いて育った最後の世代です。
当時の被害の様子などを
直接聞いて育った最後の世代です。
火の海と化したまちのこと、
川に飛び込んで難を逃れたこと、
焼けただれて亡くなる人々を
目の当たりにしたことなども
耳にしています。
川に飛び込んで難を逃れたこと、
焼けただれて亡くなる人々を
目の当たりにしたことなども
耳にしています。
まだ少年だった父は、
志願したという形で
地元の皆様に見送られたそうです。
志願したという形で
地元の皆様に見送られたそうです。
戦争のことが話題になるとき
私が幼女だったころの
父の様子を思い出します。
私が幼女だったころの
父の様子を思い出します。
戦争のことを聞いても
父は、よく
少年航空兵仲間だった人たちのアルバムを
じいっと眺めていることがありました。
少年航空兵仲間だった人たちのアルバムを
じいっと眺めていることがありました。
写真館で撮ったような
ポーズをつけ美しく修正された写真でした。
ポーズをつけ美しく修正された写真でした。
一ページに一人ずつ
スターのブロマイドのようになった写真でしたので
少女だった私にはとても不思議なものでした。
スターのブロマイドのようになった写真でしたので
少女だった私にはとても不思議なものでした。
写真の少年たちのことを
いろいろ聞いても
「亡くなってしまった」というだけで
父は、戦争の話はほとんどしませんでした。
いろいろ聞いても
「亡くなってしまった」というだけで
父は、戦争の話はほとんどしませんでした。
夫の亡父も、
シベリア抑留当時の話は
ほとんど口にしなかったそうです。
シベリア抑留当時の話は
ほとんど口にしなかったそうです。
話さなかったのではなく、話せなかった
夫の亡父も、私の亡父も
戦争のことを
ほとんど話さなかったのではなく
戦争のことを
ほとんど話さなかったのではなく
話せなかったのだと思います。
大人になるにつれ、
私ども自身が学んだことと
私ども自身が学んだことと
父をはじめとする
家族から聞いた断片的な話を
つなぎ合わせていくうちに
そう理解するまでに至りました。
家族から聞いた断片的な話を
つなぎ合わせていくうちに
そう理解するまでに至りました。
当時、夫の父は成人間もなし、
私の父は少年だったのです。
私の父は少年だったのです。
その心に刻まれた戦争の記憶は
言葉にできるようなものでは
なかったのでしょう。
言葉にできるようなものでは
なかったのでしょう。
歳を重ねてわかる事
歳を重ねて
「ありがたい」
と思うことが増えました。
生きていける、家族がいる、
食べるものがある、
病気になったら診てもらえる、
街がある、道がある、
鉄道がある、
ああ、みんなこれ
先人たちの苦労を礎として
その上に成り立っている
そんなことをよく思うようになりました。
引っ越せないのに隣人が殺人鬼だったら
突然ですがたとえ話です。
隣人が殺人鬼だとしたら。
引っ越せない以上、
戦う備えは必要なのです。
戦う備えは必要なのです。
もちろん争いごとなど起こさずに
殺人鬼を封じ込めることができれば幸い。
殺人鬼を封じ込めることができれば幸い。
「抑止力になる」というのは
そういうことでしょう。
そういうことでしょう。
私たちは
襲われてそのままでいるような弱虫じゃない!
襲われてそのままでいるような弱虫じゃない!
警備も万全、武器だって持ってる、
戦う術も身につてける!
戦う術も身につてける!
これが隣人の戦意を押さえるはずです。
それでもやむをえず
戦うことになってしまったら
殺人鬼にされるがままになどしていられません。
戦うことになってしまったら
殺人鬼にされるがままになどしていられません。
先人たちが命を懸けて
まもってくれた日本を
私たちもまた
まもっていかなくてはならない。
未来の子どもたちのために
何ができるだろうか、
命を賭して下さった
先人たちのご恩に報いるために
何ができるだろうか、
そんなことを考えずにいられない
終戦の日を、また迎えました。
\私の恐怖の体験談/
関連記事
地平線が、縦にも斜めにも走る様子を、ドア全開のプロペラ機から見るという事態は、私の人生でも最初で最後のことでした。ドローンなど無い昭和の時代、ローカルTVコマーシャルの空撮は、パイロットの腕だけが頼り。さすが[…]